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量子コンピューターを知る人が圧倒的に利する訳

量子コンピュータの実用化が現実味帯びる

2019年10月にグーグルが「量子超越性」を達成したことで、現在のテクノロジーの先に描かれている未来、すなわち量子コンピュータの実用化が、これまで以上に現実味を帯びるようになりました。

ただし、そうはいっても、普段「量子」などに触れない人は、量子コンピュータが登場したとして、どのような変化が私たちの生活に訪れうるのか、予想もできないことと思います。

そこでここでは、ごく簡単ではありますが、量子コンピュータ実用化によってもたらされるであろう進歩をご紹介します。

その1つ目が、既存のコンピュータにはなしえない「スピード」です。

量子デジタルコンピュータの高速性への期待は、1994 年のアメリカ・ベル研究所の、ショアによる整数の因数分解のアルゴリズムの発見によって一気に高まりました。

アルゴリズムとは、「ある目的の状態へ達するための有限回の手続き」と考えてください。電子デジタルコンピュータにもプログラミングという人間が行なう作業があって、それによって作成されるものがプログラムと呼ばれるというのは、聞いたことがあると思います。

そのプログラムを支えているのもアルゴリズムという考え方で、あるプログラムが目的を達して終了するためには、その根底に「ある目的の状態へ達するための有限回の手続き」、つまり、アルゴリズムがなければならないのです。

さて、話を「整数の因数分解」に戻しますが、整数の桁数の増加にともなって、計算時間は膨大なものとなります。たとえば1万桁の整数の因数分解には、現在の最も高速な電子デジタルコンピュータ(つまり、スーパーコンピュータ)を持ってしても、1000 億年という現実的ではない時間を要することがわかっています。

このことが、現在インターネットで使われている公開鍵暗号方式(施錠する際は公開鍵を使い、解錠する際は秘密の鍵が必要となる暗号方式)の安全性を担保しています。つまり、公開鍵暗号方式を突破するには1000 億年くらいかかる膨大な計算が必要なため、破られることはない、というわけです。

ところが、量子デジタルコンピュータで、ショアの整数の因数分解のアルゴリズムを使えば、1万桁の整数の因数分解も数時間で計算可能と想定されています。

ですから、先ほど紹介した公開鍵暗号方式は、もし量子デジタルコンピュータが実現すると数時間で突破されることになり、その安全性が保てない事態に直面することになります。

とは言ってみたものの、もし量子デジタルコンピュータが実現したとしても、心配は要りません。

量子デジタルコンピュータを実現する技術は、公開鍵暗号方式を打開する一方で、量子暗号方式というものも実現する技術となるからです。

要するに、鍵を突破する技術の向上以上に、鍵の技術も向上するはずだから心配はいらない、というわけです。

さて、こうした技術の基礎理論として、「量子もつれ=量子エンタングルメント」という量子状態についても紹介したいところですが、その典型として「Bell状態」や「GHZ状態」を解説するためには、まずケットベクトルのテンソル積というのも紹介して……と、本筋ではない説明が雪だるま方式で増えていってしまうため、ここでは控えさせていただきたいと思います。

興味を持たれた方は、上坂吉則著『量子コンピュータの基礎数理』(コロナ社)など、詳しい説明がされている書籍にぜひ挑戦してみてください。

挑戦といっても、0と1 と虚数単位iの3つのうち、2つの掛け算を、ある順序にしたがって行なうだけですので、数学だと思わず、単なる記号操作だと思えば、理系科目が不慣れだった方もついていける内容です。

結果として、これからの社会に大きな影響をもたらすと目される量子コンピュータの凄まじさを理解できるのですから、視野を広げるべく、挑戦されることをお勧めします。

「私とは何か?」の解明

もう1つ、大きな期待が寄せられているのは、「自己意識」の解明です。量子力学の解明と量子コンピュータによって「私とは何か?」が解けるかもしれない、とされているのです。

まず、私たちが普段感じている「意識」について考えてみましょう。

「私」というものは大きく2つのモノ、「私の体」と「私の心」が合わさって出来たものです。ここではひとまず、「私の体」のほうだけ注意を向けてみましょう。

今、あなたは何かが見えています。何か音が聞こえています。何か匂っているかもしれませんし、何も格別に匂っていないかもしれません。口の中に、何か味がしているかもしれませんし、何も格別に味がしていないかもしれません。

体のどこかが痛かったり、痒かったり、寒かったり、暑かったりしているかもしれません。これも、匂いや味と同様に、何も格別に感じていることはないかもしれません。少なくとも、体のどこかが、何かに触れている感じはきっとしているでしょう。

このように、あなたの体の感覚器官は、外界からの刺激を受けることができます。体は、さらに、お腹が空いたとか、喉が渇いたとか、オシッコがしたいといった、体の内側の刺激も受けることができます。

ただし、体の内側の刺激は、単なる感覚にとどまらず、空いた、とか、乾いた、といった、すでに「意味」が付与されていますね。

量子コンピューターを知る人が圧倒的に利する訳

勿論同じように、感覚器官が受けた外界からの刺激も、たとえば音だと、「TV の音だ」とか「鈴虫の声だ」とか、たとえば匂いだと、「夕食のカレーの匂いだ」とか、たとえば味だと、「さっきしゃぶったアメの残りだ」とか、たとえば触だと、「握っているマウスだ」といった、何らかの「意味」がすぐに付与されるわけです。

やっているのか、ただ単に観測しているだけか

さて、それら一連の感じ方というのは、あなたが「私が」というふうに主語で表す、意識主体たる「私」が、やっていることなのでしょうか。それとも、ただ単に「観測している」だけなのでしょうか。

続いて、「私の心」のほうにも目を向けてみましょう。

あなたは今、

「村上はいつも面白くねーことを書いているけど、このテーマは、輪をかけて面白くねーな」

という感想が、湧き上がってきているかもしれません。それが原因で、少し不機嫌な気分になりかかっているかもしれません。本を一刻も早く閉じたい衝動に駆られているかもしれません。

逆に、

「村上はいつも面白いことを言うけど、このテーマは今までと毛色が変わってますます面白そうだな」

という感想が、湧き上がってきているかもしれません。それが原因で、少し愉快な気分になりかかっているかもしれません。さらに先へ先へと読み進めたい意欲に駆られているかもしれません。

ここで、「私の体」に注目していったときと同じ疑問が生じます。

ここで「私の心」に生じた思いは、あなたが「私が」というふうに主語で表す、意識主体たる「私」がやっていることなのでしょうか。それとも、ただ単に「観測している」だけなのでしょうか。

慶應義塾大学大学院(SDM 研究科)の前野隆司教授が提唱する、「受動意識仮説」という説があります。

受動意識仮説とは、一言でいうと、私たち人間1人ひとりが、「私が」というふうに主語で表す意識主体たる「私」は、私たちが通常そう感じているような「能動的な主体」ではなく、「受動的な何か」でしかないのではないか、という仮説です。

「私(=「私の心」)」は、私の「司令塔」ではなく、私(=「私の体」+「私の心」)で起こっていることの単なる「観測者」ではないかというのです。

私が先ほど、「私」がやっていることなのか、それとも、ただ単に「観測している」だけなのか、という問いかけをしたのは、このような仮説によるものでした。

「ちょっと待ってくれよ。そういう事々は、百歩譲って、受動意識仮説の通りとしよう。しかし、もっと能動的なこと、たとえば、指を動かすといったことは、俺の中にいる『私』が、やっていることとしか思えんぞ!」

という声が聞こえてきそうですね。ところが、実は、それがそうではないのだという実験結果があるのです。

カリフォルニア大学サンフランシスコ校のリベット教授が行なった実験で、1983 年の論文で発表されたものです。実験の詳細は、例によってググっていただくとして、結果だけ申し上げます。

「0.2秒の差」が意味すること

脳の中で「指を動かせ」という信号が、指の筋肉に向けて発せられた時刻と、心の中で「指を動かそうと思った」時刻を比べたら、脳の中で「指を動かせ」信号が発せられた時刻のほうが、0.2 秒、早かったのです。

つまり、脳の中で「指を動かせ」信号が発せられたわずかな後に、心の中で「指を動かそうと思った」というわけです。 言い換えると、残念なことに(でもないか)、「俺の中にいる『私』が、能動的に指を動かそう」と思ったのではなく、脳の中で「指を動かせ」信号が指の筋肉に向けて発せられたのを観測して、慌てて(0.2 秒も遅れているから、そうでもないか)「俺の中にいる『私』が、能動的に指を動かそうと思ったんだ」という理屈になるわけです。

極論、能動的な自己意識がなくても、私が勝手に動いているということになりますが、ではなぜ、受動的な意識が生まれたのでしょうか。このことについても考えておく必要があるので、ご説明しましょう。

量子からだいぶ遠ざかっているように感じられますが、もうしばらくこの自己意識に関する話にお付き合いください。

自己意識を持ったAI のつくり方

なぜ受動的な意識が生まれたのかというと、前野教授の仮説では、

「経験を記憶していく『エピソード記憶』を行なうためには、エピソードの主語となる主体を必要としたからだ」

ということになっています。

これまで説明したように、意識主体たる「私」は、私が勝手に動いている結果を、ただ単に観測しているのに過ぎないのに、「私がやったんだ」「私が感じたんだ」「私が思ったんだ」と思い込んでいるだけなのです。

「私がやったんだ」「私が感じたんだ」「私が思ったんだ」というエピソードを記憶にとどめるために。

近年、人工知能、AI の開発に余念がない人類ですが、中でもとりわけ開発することが困難だといわれているのが、この「意識主体」とか「自己意識」といったものです。

AI に自己意識を持たせるというのは、どういったプロセスによって達成されるのでしょうか。この課題の解決に、受動意識仮説は大きく寄与すると私は考えています。

AI の構築は、これまで、AI に自己意識を持たせるための手法として、「司令塔」づくりを目指して、失敗してきました。

一方で、受動意識仮説に基づいてAI を構築するなら、さまざまな部分機能を果たす要素の集まりをつくり、その個々の機能要素が出力してくるアウトプットをただ単に観測している、「観測者」をつくればいいということになります。

それではその「観測者」をどうやってつくるのかになるのですが、ここでようやく本題となり、量子力学が大きく関わってくる可能性が示されているのです。